「少年Aは自ら罪を認めているのだから冤罪ではないのでは?」という声をよく聞きます。こうした「冤罪説に関連したよくある疑問や反論」について、私なりに答えてみたいと思います。

Q1.少年Aは自白を含め一貫して犯行を認めているから、冤罪のはずがない。

まず自白ですが、まったくの無実にもかかわらず「自分がやった」と嘘の自白をする人がたくさんいることは周知の事実です。長時間の取り調べで疲れてしまって「やった」と言えば楽になれると思うんですね。

これは大人でもそうなるのですから、当時14歳だったAに「気をしっかりもって、やってなければやってないで押し通すんだ!」というのは無理な注文です。ましてやAの場合は「筆跡という動かぬ証拠がある」と、警官から嘘までつかれた挙句の自白でした。

冤罪はこうして作られる」によれば、あるベテラン刑事は以下のように語ったそうです。

現在の警察の取り調べ方からすれば「やってなくても自白する」ほうが、人間としては自然なのです。いかなる状況でも無実を一貫して訴えられる人のほうが、むしろ少数派なのですね。ですので「自白したから犯人のはずだ」というのは間違いです。

とはいえ、冤罪を訴える被告はみな、一度はした自白を「やっぱりやっていない」と撤回するものです。もしもAが本当にやっていないのなら、なぜ自白を撤回しないのでしょうか。

ヒントは、Aと母親の短い会話にあります。「あんたがやったん?」と母親に尋ねられた少年Aは「やった」というふうに頷いたあと「僕はそういう病気なんや」と答えたといいます。

「そういう病気」とは何か。たいていの人はこれを「猟奇性」とか「性的サディズム」だと思うでしょう。けれどもA自身には、そうした性質やそれに基づいて行われたとされる犯行の記憶はないのです。Aは「自分は自分でも知らないうちに凶悪な犯罪をやってしまう病気なのだ」と信じているのかもしれません。

「おまえは自分でも知らないうちに人を殺すような人間なんだ」とは、容疑を否認する者に対して警察がよく使う言葉です。甲山事件の被告は「そういわれるとそういう気がして、一度は自白してしまった」と語っていますし(「自白の心理学」参照)、長野県で実母殺しの容疑をかけられた主婦も、同じようなことを言われたといって憤慨しています。

まずは同行なり逮捕なりして一般社会から、そして他人から「隔離」し、長時間の取り調べによる疲労やストレスを与えて「弱らせる」。そうして「おまえがやった」「おまえはそういうことをやる人間なんだ、病気なんだ」と繰り返し、偽りの事実の記憶を「刷り込む」…これは洗脳そのものではありませんか。

もちろん日本の警察は「無実の人に犯罪の記憶を植えつけて犯人に仕立ててやろう」などと思ってやっているわけではありません。警察は真実、目の前の容疑者がやったのだと思っているのです(「自白の心理学」参照)。

ところが、取り調べでの疲労と、取調官の心からの信念である「おまえがやった」によって、やっていない容疑者でも「自分がやったんだ」と、図らずも洗脳されてしまうのです。でもって「おまえは知らないうちに犯行をやったのだ」と言われて、自分でもそれを信じてしまうとどうなるか。

自分がやったとされる犯行について、供述などもしてそれなりに知っているんだけれど、どうしても現実感が伴わない、夢の中の出来事のような感じになるのです。何かこう、しっくりと来ない、催眠術にでもかかったような感じですね。

当然、切実な罪の意識などは生まれません。逮捕後のAは「超然としている」などと弁護士に言われていましたが、つまるところこれは、犯行に現実感がないだけなのです。あたりまえですよね。人は実際にやってもないことに、現実感を持つことはできません。

少年Aの場合、他にも「少年院で世話になった人たちを裏切ることはできない」とか「冤罪だなんて言い出したらオオゴトになるし、このまま黙っているほうが得だと踏んだ」などの可能性もありますが、そのような「やっていないという自覚の上での計算」などではないだろうと思います。

やはり最も考えやすいのは「自覚はないけど、やったと思い込んでいる、自分はそういうどうしようもない病気なんだからと思ってしまっている」ということでしょう。IQ70の子どもの脳に、大人が寄って集って「君は自分でも知らないうちにやったんだよ」という、ありもしない記憶を植え付けたのです。

偽りの記憶を、Aは完全に自分のものとはしていないかもしれない。けれどもはっきりと「やってない」「やらなかった」と断言できる状態でもないのです。「自分でも知らないうちにやったんだ」と信じてしまったのでは、自白の撤回などはどう転んでも無理でしょう。

警察で「やった」と思い込まされて以降、精神科医その他、少年Aが出会うあらゆる人が、Aを神戸事件の犯人として取り扱いました。誰一人「本当はやっていないのでは?」と尋ねかける人はいない。「冤罪じゃないの?」と問いかけた母親に、Aは首を振りました。

少年Aの洗脳は、今なお解けていないのかもしれません。解けるには、誰かが真摯に「やってないんじゃないのか?」と問いかける必要があります。ところが彼は仮退院後も「彼が犯人だ」と信じる「心優しい人々」に囲まれています。「自分がやった」という偽りの記憶は、むしろ強化され続けているのです。

たとえ実際にはやっていなくても、A自身がやったと思い込んでるんだったらそれでいいじゃん、と言われるでしょうか? もちろんそうではありませんよね。真犯人は野に解き放たれたままです。Aを無実とし、真犯人が捕まること、それが正義というものです。

Q2.少年Aの両親からして冤罪だとは主張していないのだから、冤罪のはずがない。

この子を生んで」の中で母親は「もしもAさえ冤罪だと言ってくれれば、何があっても闘うのに」と語っています。もしもこれが、ライターが適当に書いたのではなく、実際に母親が口にした言葉であるとすれば、Aさえ「やってない」といえば、両親は冤罪を主張する準備があるということになります。

上のような理由でA自身が「自分は病気だからやった」と信じている場合には、両親としてもどうしようもないものと思われます。世にはAが冤罪だという声も確かにあるのですが、そうした人たち(主に弁護士)は、なぜかAの両親と会うことができないままのようです。

Q3.被害者の遺族の気持ちになれば、Aが冤罪だなどとはいえないはずだ。

これも非常によく目にする意見なのですが、被害者の遺族にとって最善なのは「誰でもいいから犯人としてあてがわれる」ことではなく「真犯人が逮捕されること」であるはずです。私は今、少年Aは犯人ではないと思っているわけですから「真犯人は他にいる」と言うことこそが、遺族にもよいことであると信じます。

被害者の遺族はもちろん少年Aが犯人であると信じていますが、それは警察が誤った情報を与えたことによるものです。誤りを信じ続けることは、決して「遺族のため」にはなりません。

また「遺族のため」と称して冤罪説を封じることもあってはなりません。というより私には、なぜ遺族を持ち出してまで多くの人が、ほとんど激昂するような形で冤罪説を否定したがるのかが、そもそもよくわからないのですが。

ある事件で冤罪を唱える人がいる。根拠がないなら笑ってスルーすればいいし、根拠があるようなら耳を傾け、自分で考えて判断する。それでいいではありませんか。事実私も「この事件はCIAの陰謀だ!」などという人の話は笑ってスルーしています。

Q4.Aの潔白を証明するための活動を何もしない者に、冤罪だなどと言う資格はない。

これはネット掲示板などでよく目にする発言です。掲示板は便所の落書きのようなものだから、そんなところで冤罪説を語るよりも、実際に再審請求などに向けて活動したらどうか、しないのなら冤罪説は語るな、というわけです。

これを言う人の本心はズバリ「冤罪説は語るな」にあります。しかし事件について調べた人が「これってもしかして冤罪では?」と、その思いを素直に表現することが妨げられていいはずはありません。

「冤罪では?」と思ったら、具体的に活動をするとかどうとかなどには関係なく、何よりもまず「冤罪では?」と語ることです。幸い今は、誰でも掲示板やホームページで自らの意見を発信をできるのですから、そうしない手はありません。

組織的に冤罪説をブチ上げる人々も確かにおりますが、それよりも一人一人が、誰の示唆も受けることなく、自らの合理的な判断によって「冤罪では?」という結論に至ることのほうが、意義としてはずっと大きいのではないでしょうか。

神戸事件の場合、自分でちゃんと調べれば、直接証拠はおろか状況証拠一つない、子どもの自白のみにすべてを負わせた理不尽な冤罪事件であることはすぐにわかります。「警察が言ったから」「マスコミが言ったから」ではなく、自分で判断することこそが大事なのです。そうした「判断」を封じるのに「活動しない」というイチャモンを持ち出すのは見当外れです。

Q5.少年Aの供述調書には、犯人にしか知りえない秘密が含まれている。

少年の供述には、犯人にしか知りえない秘密は含まれておりません。そのように勘違いをする人は、おそらく「被害者の血を飲んだ」とか「首を切るとき興奮した」といった猟奇的な部分に注目し、いかにも凶悪な犯人にしか語れない事柄であるかのように感じるのでしょう。

これらはあくまで少年Aの自己申告(おそらくは警察・検察の作文)でしかありません。そうしたことがあったのかどうかは証明のしようがなく、要は何でも言えてしまう、だから「秘密の暴露」とはいえないのです。

犯人にしか知りえない秘密は、客観的に証明される必要があるのです。「凶器はどこそこに隠してある」と犯人が「秘密」を告げたら、実際にその場所から凶器が出て来なければなりません。そうしてはじめて「犯人にしか知りえない秘密を暴露した」ことになるのです。

神戸事件の場合、少年Aがそうした秘密を暴露したという事実はありません。凶器が池にあるとAが告げ、池をさらったら金ノコギリが出たそうですが、Aが凶器として「池に捨てた」と語ったのは「糸ノコギリ」でした。のちに検察は供述調書の中でAに「あれは金ノコギリの間違いでした」と言わせるのですが、残念ながらそれでは秘密の暴露とはいえないのです。池から出たノコギリから血液や組織も検出されませんでした。

また、3月事件では「何が凶器か」をAが語り、その凶器の形状と被害者の傷口の状態が一致すれば、それも秘密の暴露といえたはずです。しかし押収された「凶器とされたもの」の形状と傷口が一致したという話も聞きません。

2月、3月事件では、Aの直筆である日記様の「犯行ノート」があるとされています。しかし少なくとも発表された部分には「秘密の暴露」がまるで含まれていないことは、弁護士さんなどからも、しばしば指摘されるところです。

Q6.報道で「物的証拠が見つかった」と聞いたことがあるのだが…。

「Aの自宅から血痕が見つかった」「被害者の組織が見つかった」といったものはすべて誤報です。私自身、当時の新聞のバックナンバーで「Aのバッグから検出された血痕のDNAは被害者のものと一致した」という記事を見たことがあります。

そのような証拠が一つでもあれば、冤罪はまずありえません。ですが、その後に読んだ新聞社系の神戸事件関連書籍のいずれにも同様の記述は一切なく、またオフレコですが裁判官やAの弁護人自身が「証拠は何一つなかった」と喋っています。

ですので、それらの物的証拠は皆無であると思われます。

事件記者は通常、警察の中に仲良しを作り、夜討ち朝駆けでその警察官に張り付いて情報を得るといわれます。ところが神戸事件のように重大なものになると、警察の口は頓に重くなる。そこで記者は「いかにもありそうな記事」を書き、懇意の警察官に「明日こういう記事を出しますが…」と当たるのです。

その場で否定されなければ肯定だとして翌日掲載する。当の警察官は、肯定も否定もしていないんですから、その記事に責任はありません。

要するにそれらの誤報は「次は当然物的証拠だろう」と早合点した記者の脳内から、根拠もなしに生まれるものなのです。それらの誤報に責任を取る人はどこにもおりません。私たちは、そういう記事を毎日毎晩読まされているのです。

記事自体は誤報でも「物的証拠が出た」という報道を読んだ時点で、読者は当然「やっぱりAがやったのだ!」と信じるでしょう。それらの人の中に、数日後の紙面の片隅の訂正記事まで目を通して、自らの仕入れた情報をも訂正しようと心がける人が何人いるか。結果、人々の間には、誤報に基づいた「やっぱり犯人はAだ」という結論だけが残るのです。

どんな事件であっても、報道合戦が過熱している最中の記事は、話半分に受け止めておいたほうがいいようです。特に事件の直接証拠に関わるような記事の場合には、他社の後追い取材によって事実と確認されるかどうかにも、読者は目を配るべきでしょう。

こうしたデタラメ記事を元にしたのか「この子を生んで」のライターが書いた部分には「Aの自室の天井板に血痕があった」などと、嘘八百の「証拠」が並べられています。この本で信用できるのは、Aの両親が語った部分のみなのです。

池から出た金ノコギリその他については、先に書いたとおりです。特にノコギリの場合には、どんなに丁寧に洗っても、歯と歯の間に微量の人体組織が残るはずで、それがないということは、このノコギリは結局、首を切った凶器などではないのでしょう。

少年A直筆の犯行ノートを証拠と考える人も多いのですが、あれはあくまで2月・3月事件についてのもので、5月の生首事件とは無関係です。また、先にも述べましたように、あのノートには犯人にしか知りえない秘密は書かれていません。

嘘の自白をした容疑者は、取調官の誘導を受けながら犯行の一部始終を(想像で)埋めるものですが、あの日記の内容は、仮にそのように書かされたとしても、十分書けるものなのです。

私自身は「2月・3月事件について」でも述べたように、あれは別件逮捕の容疑者が罪を認める際の上申書に類するものだったのではと考えています。いずれにしろ、そのような内容のノートがAの部屋にあるところを、たとえば家宅捜索の際などに、その目で確認した人は誰もいないのです。

3月事件の被害者のうち、生き残った児童が、Aの顔を犯人であると認めた、という話をときどき聞きます。私もいずれかのルポで読んだような気もするのですが、この事実についても他の記事による確認はありません。

そのような証言があるのであれば、Aが犯人であるという確たる証拠として、どの関連本にも登場しそうなものですし、ないということはあまり重視されていないのでしょう。実際、目撃証言というのはいくらでも歪めることができるのです。

Q7.冤罪を唱えるのは過激派だ、国家権力をとにかく否定したいだけだ。

一部の過激派は確かにAは冤罪だと主張していますが、冤罪だと主張する者がすべて過激派というわけでないのは言うまでもありません。事実、私は過激派ではありません。ただ「冤罪だと思うにいたった理由」にも書いたように、ふとしたきっかけで事件について調べはじめて、どうも冤罪のようだ、と思うに至っただけなのです。

私はもちろん、国家権力なるものを否定してはおりません。「国家権力」という言葉がいったい何を指すのかも、私の中では明確ではありませんが、たとえば私は警察の存在や仕事をありがたいことだと思っています。

また、こういうことを言っていいのかどうかわかりませんが、警察が作るとかいう裏金だって、捜査後の慰労会費くらいならいいんじゃないか、などとも思うくらいです。じゃんじゃん懐に入れるなんてのは困りますけどね。

「Aが犯人だ」は確かに、裁判所という国家権力なるものの判断でしょう。そして国民は、あるいは市民は、その判断が間違っていると思ったら、そのことをはっきりと表現しなければなりませんし、その表現が妨げられることがあってはなりません。

「権力が間違っているのでは」と素直に疑いを挟む人に対して「権力のやることは何でも否定するんだろう」と非難する人は、要するに「権力を否定するな」と言いたいだけなのです。しかし「権力は絶対に誤らない、権力を批判するな、間違いを指摘するな」という人々の盲目的な態度は、当の権力自身にとって、ひいては私たちみんなの生活にとって、むしろ非常に危険なものなのです。

「権力なんだから絶対に誤りませんよね!」と言われると、権力は実際に誤ることができなくなります。権力の本体は何でしょう? それは人間です。所詮は人間のやることですから、誤らないはずがないのです。ところが、誤ることはできない。こうなると、誤りを隠蔽するようになります。誤りを認めると、自らの権威が失墜するのではないかと怖れてしまうのですね。

そして誤りが隠蔽された陰では、その不正義に泣く人、苦しむ人が必ずいます。そんなことにならないように、人間なら誰もが誤りうるものなのだと、権威・権力自身も、そして人々のほうも、ともに認めることこそが必要なのです。権力が誤った場合には、しかるべき手順でその過ちを正せる準備が必要です。私たちも、権力が誤ったからといって、ここぞとばかりに揚げ足を取ったりするようなことは慎むべきでしょう。

「国家権力だから否定しない」と「国家権力だから否定する」は、メンタリティとしては同じです。いずれも「国家権力だから」で思考停止してしまって、個々のケースを合理的に見つめることを怠っているのです。

Q8.冤罪説、少年Y真犯人説は、公的な資料に基づくものではないので信用できない。

神戸事件は少年犯罪ですので、審判の内容は非公開、つまり世に流出したものはすべて「公的な資料」ではありません。

私の「少年Y真犯人説」は、数ある供述調書の中でYのものだけがAの逮捕前に取られていること、その中でYがAについていろろと嘘を語り「事件はAがやったと思う」と(明らかな嘘を)告げていること、また警官の前で「懲役13年」をスラスラと清書したこと…などを根拠としています。

この「Yの供述調書」のそもそもの出所を私は知らないのですが、少なくともその調書の存在を明らかにした2冊の書籍(「神戸事件を読む」「真相」)では、この調書を引き合いに出して「犯人はYだ」と主張しているわけではありません。

それらの著者には、少年Yを犯人として名指しする気持ちはなく、従ってYの調書に関して何らかの嘘をつく動機もないのです。何らかの動機があって意図的に出された調書ではありませんから、その内容自体は信じていいのではないかと思います。もちろん「少年Y犯人説」を受け入れるかどうかは、それとはまた別の話です。

Q9.一般人の唱える冤罪説よりも、警察やマスコミの言うことのほうが信用できる。

一般に事件報道では、マスコミは警察の代弁者です。記者が日頃から懇意にしている警察関係者から情報を仕入れるという仕組みのせいもありますが、それよりもマスコミ自身の頭の構造によるところが大きいのでは、と思います。

どんなに独自取材を重ねたところで、テレビ局や新聞社、あるいは記者にとって「正解は常に警察」なのです。容疑者の逮捕前にマスコミがあれこれ騒いで報じているのは、結局のところ「犯人は誰? 正解当てクイズ!」でしかありません。

神戸事件でも、マスコミはずっと「中年の男」を追いかけていたはずなのに、警察が少年を逮捕したなると、そんなことなど、あっさりと忘れてしまいました。このときマスコミの頭には「中年の男説はどうなったのか?」という疑問はありません。あるのは「え〜、少年だったのか〜。ずっと中年の男ばかり探してて、ハズレちゃったよ〜」くらいのものでしょう。

反省するとしても、それはあくまで「少年が犯人だ」という警察の立場に立って「あの中年男騒動は何だったのか?」とやる程度。「中年男犯人説」の立場から「ほんとうに少年は犯人なのか?」と問いかけることはありません。

これは、そもそもマスコミの唱える「中年男犯人説」そのものが、そのくらいの価値しかなかったということでもあります。

ちょっとした目撃証言などを捉まえて、針小棒大というかマッチポンプというか、総倣えの体で「犯人は中年男だ!」と決めつけてワイワイ報道していただけなのです。ですので、犯人逮捕後もその説に執着する理由はマスコミにはありません。

それまでの報道が根拠のない空疎なものだからこそ、闇雲に警察発表を正解だと思ってしまうのです。ふだんから自らの合理性と信念に基づく報道を心がけている人にとっては(そんな記者がいればの話ですが)、警察発表もまた、一つの検証すべき対象でしかないはずです。

ところが日本のマスコミにとっては、警察が少年だといえば、正解は少年でしかありません。その「正解」に疑義を差し挟む習慣、警察発表を独自に検証する習慣は、少なくとも大手のマスコミにはないようです。

ということで「警察やマスコミの言うことのほうが信用できる」は「警察の言うことのほうが信用できる」と同値です。警察の言うことが信用できるかどうかについては「警察だから<自動的に・全面的に・文句なく・常に>信用できる」という頭になってはいけないのではないか、と答えるしかありません。

警察は、たいていの場合信用できます。それは、私たちの隣人や同僚がたいていは信用できるのと同じです。そして隣人や同僚が時として過ちをするように、警察もはやり過ちを犯します。

「警察だから、他の人よりもミスが少ない」ということはありません。少なく見えているとしたら、それは私たちが警察に権威を見出したいがあまり、警察のミスに限っては目を逸らせているか、あるいは警察自身がミスを隠蔽しているのでしょう。

警察が宅間守や小林薫を逮捕するのを、間違いだという常識人はおりません。しかし神戸事件でYの口車にまんまと乗せられてAを逮捕したことは、少なくとも私には、明らかに間違いであるように思えます。

「警察だから常に正しい」と盲目的に信じるのではなく、合理的に判断を下す力を自らの中に培い、その力に則って「あの事件では警察は正しいが、この事件では正しいとは言えないのではないか?」と、個々のケースを見つめることが大切なのです。

といっても私自身は、この事件に限っては、別に警察のミスなどではないと思っています。一部、少年に嘘をついて自白させた件がありましたが、その点については無事、審判の場で正されました。

警察は「あの人が怪しいと思う」という通報によって一人の少年を疑い、連行し、取り囲んで自白を引き出しただけなのです。怪しい人がいれば事情を聞くのはあたりまえですし、最初からAを疑っていたのですから、警察がAの自白を信じるのもあたりまえです。警察は、警察の仕事をしただけなのです。手法は間違っていましたが。

警察の過ちを、Aの自白が嘘であることを、見抜くべきだったのは裁判所です。証拠は何一つ存在せず、あったのはIQ70の14歳が泣きながら自白した調書だけ。裁判官が真に憲法に忠実であれば、この事件は端から無罪となるはずでした。あの審判の裁判官が、差し出された事実と憲法に則って裁きを下していれば、Aの冤罪はなかったのです。

日本の裁判では一般に、起訴されればほとんどが有罪判決となってしまいます。そのため、裁判官の存在感はそんなに強くないのかもしれません。

けれども冤罪事件を見て、警察での取り調べばかりを責めるよりも、私たちみなが「悪いのは裁判官だ」と指摘することで、日本の裁判官の存在感が増し、それだけ独自の判断を下せるようにもなるのではないかとも思うのです。

もっとも神戸事件の場合には、弁護人も悪かったんですけどね。「大人なら無罪を争う」というのであれば、少年であってもそうしてくださいよ、まったく。真実に大人も子どももないのですから。

Q10.警察や裁判所は事件に関するプロであり、素人の自分たちが何を考えても無駄だ。

これは、外国で陪審員という素人が裁判に参加していることからしても、明らかに間違った考えです。

2002年に静岡県で起きた御殿場事件という冤罪があります。一人の嘘つきな女の子が、出会い系で知り合った男と会っていたのを咎められないよう、親に「レイプされた」と言ったのですね。それも10人。名前を出された10人は、揃って起訴されてしまいました。

当然ながら、出会い系の男が出てきて証言します。レイプがあったというその時間、自分は彼女と会っていたのだと。すると検察は「レイプがあったのは実は一週間前のことだった」とおかしなことを言い出します。ところがその「一週間前」には、その地域は台風に見舞われていて、地面とかゲテゲテだったんですね。なのに女の子は、レイプされる間、雨も降っていなかったし服も汚れなかったという。

要するに「レイプは女の子がついた嘘」なのですが、何と地裁は「現場だけは雨が降らなかったかもしれない」というバカげた超認定をして、10人の少年たちを有罪にしてしまいました。これが「法律のプロの判断」です。困りましたね。

理屈に合った判断をするのに、素人も玄人もありません。偏見に囚われず、道理に従った判断を下せるだけでいいのです。素人でも玄人でも、同じ材料があれば同じように判断できる、それが道理というものです。

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